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日本書紀にさかのぼる古い歴史 |
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神功皇后に関する伝承は佐賀 県の東松浦地方には数多く伝えら れているが、加唐島にも神功皇后 伝説が地名となって残されている。 紀元3世紀初頭、朝鮮半島にあ った新羅を征討するため松浦の 地に入った皇后はこのとき懐妊し ており、加唐島の入り江で着帯の 式をあげられたという。 この故事にまつわる場所が、加唐 島の西岸にある「オビヤの浦」であ るといわれている。「オビヤ」とは、 「帯祝い」が訛ったものといわれて いる。 |
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「オビヤの浦」 |
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雄略天皇の5年(463年)、百済国王加須利君の弟の軍君の船が、筑紫の国の「各羅島」に立ち寄ったという記事が、「日本書紀」の中にある。この「各羅島」が、現在の加唐島ではないかと言われている。東松浦半島は、朝鮮半島や中国に近く、リアス式海岸の天然の良港を有している。古くから大陸との航海の要衝にあった加唐島は、順風を待ったり、暴風を避けたりするための絶好の地であったろう。 |
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時代は下って、16世紀末。岸岳城(東松浦郡北波多村と相知町の境に今も城跡が残る)を居城としていた松浦地方の盟主波多三河守のころ、加唐島には海岸の警備担当として足軽2人、人夫2人が置かれていたという。 波多氏が豊臣秀吉によって滅亡させられたとき、その家臣たちは四散した。この加唐島には、波多一族の墓と共通する特徴をもった墓があったというから、彼ら落武者の一部は、加唐島にも隠れ住んだのではないかと思われる。 |
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唐津藩時代の石高帳によれば、加唐島の石高はおよそ43石程度で、馬渡島の半分弱といったところである。江戸時代、対馬の大名宗氏が、江戸への参勤の途中暴風雨に会い、乗船が加唐島の瀬に座礁した。このとき、島の人たちが自らの命をも顧みず救助したという。このとき宗氏は、島の人々に刀、感謝状を贈り、宗姓を名乗ることを許したという。今も宗という名字は加唐島に伝えられている。また、このとき宗氏の船が座礁した瀬は、「対馬瀬」と呼ばれ、加唐島の西岸にある。 | |
(以上は主として「鎮西町史」による。) |