山陰・四国、秋のオートバイ一人旅
1972年10月12日〜10月21日

ここに紹介するツーリング記録は、学生時代にクラス
の機関誌に投稿したもので、原稿用紙20枚以上の
大作である。ここでは、これを原文のまま転載した。 
 写真は、当時趣味でモノクロ写真の自家現像、焼き
付けをしていたので、モノクロ写真とカラー写真が混在
している。アルバムに貼っている写真をスキャナーで
とったが、カラー写真のほうは色落ちがひどかったの
で、コントラスト、彩度を上げて加工している。これも、
デジタル時代の恩恵である。今から30年前は、カラー
よりもモノクロのほうが記録的な価値はあったようだ。

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はじめに
 行き先は山陰、日程は約一週間。それだけでも、もう十分だった。日増しに晩秋
のにおいを濃くする秋風にせかれるようにして我が家を出たのは10月12日。細
かい計画など一切なしであるが、そのほうが気が楽だ。ただ一つの心配は、空模
様のこと。ここ数日続いている好天気がこれからも続いてくれることを祈るだけで
ある。
 以下、今度の旅で見たもの感じたものを思いつくまま書いてみた。
10月13日(金)〜2日目秋吉台〜萩〜益田〜出雲大社〜松江)
 萩のユースに泊まる予定だったが満員で断られて、仕方なく一日目は秋吉台
ユース泊まりとなった。おかげで、今日は萩から出雲大社を経て松江までのかな
りの強行軍となる予定である。
 7時50分にユースを出発して、カルスト台地を縫ってのびている秋吉台スカイ
ラインを走る。昨日見た秋芳洞は修学旅行の高校生が多くて途中で出てきたが、
このカルスト台地は雄大でおおらかで気にいった。東西17キロ、南北7.5キロ
に及ぶ日本最大のカルスト台地は昭和30年、国定公園に指定された。毎年の
山焼きによって,常に平原の状態が保たれているという。
秋吉台にてヤマハAS−2
関門トンネル通行券
1日目、関門トンネルを利用
秋吉台道路通行券
秋吉台道路、なんと10円
利用したのが125CCクラスのバイクと
いうこともあるが、有料道路の料金を
見て隔世の感がある。
秋吉台をバックに、愛車ヤマハAS-2
秋吉台道路
秋吉台道路でセルフポートレート
 延長10.5キロの秋吉台スカイライン有料道路を走り終わって、今日の第一の目的地
萩をめざす。山口県大津郡三隅町で国道191号に入る。路面は良好で交通量も少なく
制限速度プラスαで快調に走る。萩市街入口で給油し、国道から左折して萩城に着いた
のが9時15分であった。
 萩市は人口5万4千人、毛利氏36万5千石の旧城下町である。川が河口付近で松本
川と橋本川の二本に分かれていて、その間のデルタの上に現在の萩市街が広がってい
る。萩城は橋本川の河口、標高143メートルの指月山の山麓にあったが,明治7年に解
体され、今は石垣を残すのみである。まだ朝早いのに、萩名物の貸し自転車に乗った観
光客(大半は大学生?)が2、3人のグループであっちにウロウロ、こっちにキョロキョロ。
特に女性の2人連れが多い。
 ふと思いついて、指月山頂の詰丸跡まで登ってみる。いざ登り始めるとかなりしんどい。
小一時間かかって、やっと頂上に着いた。頂上はゆっくり歩いて4,5分で一周してしまう
くらいの広さだ。ここには雨水を受けて溜める天水受けや白壁の塀が荒れるままに残って
いる。萩城跡を訪れてもここまで登る人はほとんどいない。
 詰丸というからには、昔、見張りの武士たちが詰めていたのだろう。確かに見張りには
恰好の場所だ。ここからは、松本川と橋本川にはさまれた萩の市街と、おだやかに広が
る日本海が眺められる。この指月山全体は全く人間の手が加えられず、自然のままに
保たれているそうである。山の樹木は全て原生林で、所々に枯れた巨木が山頂への小
道をさえぎっている。しかし、木々を切り払って鉄筋コンクリートの模造品の天守閣を建て
るより数段よろしい。この指月山頂は気に入ったがゆっくりもできない。駆け足で山を降り、
10時25分に萩城跡を発ち、市街に入る。
 萩市内には所々に昔の城下町の面影が残っている。これは、萩が周防・長門36万5千
石の毛利氏城下として江戸時代二世紀半もの間繁栄しながらも、明治に入ってこの地方
の行政の中心が山口に移り、萩の旧城下が昔の姿をそのままとどめたかたちで発展から
取り残されたことによる。萩市の見どころはこういう武家屋敷の静かなたたずまいである。
高杉晋作・木戸孝允の旧宅、藩校明倫館の跡などを見学し、松下村塾を最後に萩市に別
れを告げたのが12時頃であった。
指月山頂詰丸跡 山口・島根県境にて
萩の指月山頂の詰丸跡で 山口・島根県境で小休止
 国道191号に入り東に進路をとる。次の目的地出雲まで約200キロ。途中、たいした見
どころもなさそうなのでノンストップで走ることにする。萩から山口と島根の県境付近までの
海岸線一帯は、北長門海岸国定公園に指定された地域である。右手に山陰本線、左手に
美しい海岸線を見せる日本海、その間を国道191号はいまにも海にのめりこむような感じ
で細くくねっている。道路は狭いところでは3,4メートルしかないが、通行量が少ないので
これでいいのだろう。
 県境に着いたのが午後1時5分、萩市から55キロの地点である。小休止していると,愛
知県から来たという同じ単車旅行の人と出会い、彼から、島根県警に注意するように言わ
れて気を引き締める。彼が言うには、島根県警はスピード違反摘発にすこぶる熱心で、
ねずみ取りをしきりにやっているという。単車旅行で一番怖いのは交通事故ではなく、オマ
ワリさんなのである。ねずみ取りで検挙され、高い罰金を払わされるのは泣くに泣けない。
今日中にどうにか松江まで足をのばしたい私にはいやな情報である。彼と別れてしばらく
走り、高津川を渡って益田市に入り国道191号もここでお別れである。
 益田から国道9号に入る。国道9号線は,下関から山口市、津和野市、益田市、出雲市、
松江市、米子市、鳥取市など、山陰地方の主要都市を結び京都市に至る。一ケタ国道と
なるとさすがに191号と違って立派な道路である。出雲市までの130キロあまりをこの9
号線のお世話になることになった。浜田市で昼食をとり、それから1時間半走りっぱなしで
午後5時半頃やっと出雲市に入った。
 秋の陽は既に西の空に傾き、出雲平野特有の屋敷の築地松(ついじまつ)と稲架(はで)
を紅色に染めている。築地松とは、この平野の農家に見られる、防風林の役割を果たす松
の植え込みのことである。家の屋根の高さより更に高くて、上はきちんと刈り込んであって、
さながら一枚の屏風のように家の西側と北川にそびえている。遠くから見ると家は見えず、
築地松だけが高々とそびえて農家の存在を示している。
 また、稲架は刈り取った稲を干すために仕掛けで、高く丸太を組み、そこに一束一束の
稲を、穂を南側に向けて水平に掛けたものである。高さは4.5メートル、幅は10メートル
近くもあり、それが刈り終えた田んぼに林立している様は壮観である。暮れゆく出雲平野
を急いでカメラにおさめ、今にも沈みそうな太陽と競争するように出雲大社のある大社町
へ向かう。
 意外に早く、30分ぐらいで大社に着く。早速社殿をひと廻りする。本殿は高さ25メートル
もあり、大社造りとして古代日本の住宅建築を偲ばせる貴重な遺構である。拝殿も同じ大
社造りとなっているが、こちらはまだ新しく、大正時代の建築とか。大きな〆縄が正面にぶ
らさげてある。陰暦10月のことを神無月というが、ここ出雲では神在月という。この月、全
国津々浦々の神々が出雲大社に集まり会議をするからである。
 出雲大社にまつられている神は衆知の通り大国主命(おおくにぬしのみこと)であるが、
大国主命は「日本書紀」によれば、八俣遠呂智(やまたのおろち)退治で有名な須差之男
命(すさのおのみこと)と稲田姫の御子となっている。須差之男命をまつってあるのが熊野
大社、稲田姫をまつってあるのが八重垣神社でともに松江市の南の方にある。いわば、出
雲大社は、熊野神社、八重垣神社の子にあたるわけだが、出雲大社の方がポピュラーな
のは因幡の白うざぎの話に大国主命が善人として登場していることによるのかもしれない。
出雲大社本殿 出雲大社拝殿
高さ25メートルの出雲大社本殿 大きな〆飾りの拝殿の前で
 出雲大社は縁結びの神様として名高いが、これは、大国主命が各国の数多くの姫と縁
を持ち妻としたといわれる事からきているという話もあるが詳しいことはわからない。この
由来はともかく、結婚という人生上の重大な問題と結びついているだけに、遠くからの参
拝客も多く、その数は年間百万人を下らないという。かく申す小生もやっぱり人の子であ
りまして、幾らかの賽銭をあげて、いみじくも深々と頭を垂れたのでありました。「どうか、
いいお嫁さんにめぐりあいますように」
 大社を出たのが午後6時、すでに陽は落ち、かなり肌寒くなってきた。名物の出雲そば
なんて食べるヒマもない。とにかく、松江のユースに1分でも早く着くことで頭の中は一杯
である。30分ばかり走って左手に宍道湖の湖水が車のライトに浮かびあがって見えた。
もう稲こぎが始まっているらしく、ワラを焼くにおいが一帯に漂い、深まりゆく秋をいやが応
でも感じさせる。やがて、宍道湖に沢山の光を反射させて輝いているネオンサインのかた
まりが大きく見えてきた。島根の県都である松江の夜景である。
 出雲大社から約50分で松江市内に入った。人に道を尋ねながら、松江ユースに着いた
のが午後7時20分。早速食事をして、8時からミーティングがあった。若いヘルパーの人
の話を聞いたり、皆でゲームをしたりして過ごす。同室の人に岡山からという人がいて、彼
もまた単車旅行中で私と逆のコースで明日は萩に行くという。いろいろと話をして情報を交
換しあう。ユースは10時に消灯となる。明日の好天気を祈りつつ、第2夜を迎える。13日
の金曜日が無事に過ぎていく・・・・・。

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10月14日(土)〜3日目(松江市内観光〜枕木山〜境港〜米子〜大山)
枕木山有料道路でセルフタイマー撮影 枕木山から中海をのぞむ

10月15日(日)〜4日目(大山町〜蒜山高原〜岡山〜倉敷〜下津井)
 6時30分起床。早く寝るせいか目覚めが実に気持ちいい。ここは鳥取県西伯郡大山町、
冬はスキー場としてにぎわう所である。顔を洗う水の冷たさ! 標高760メートルの大山寺
部落の朝は冷え冷えとしている。ユースホステルにはすでに暖房が入っている。大山のユ
ースには山男が多い。今日は日曜、泊まりがけで登りに来た人が多いのだろう。そのせい
か、なんとなくユース全体が荒々しい感じがする。山男たちの朝は早い。8時に出た私が最
後のホステラーであった。
 大山は標高1700メートル余、中国地方随一の秀峰である。準備もしていなかったし、時
間的な余裕もなかったので登らなかったが、その男性的な姿にすっかり魅せられてしまっ
た。天気が良いせいか、険しい稜線がくっきりと秋空に映え、目をこらすと、頂上を縦走する
登山者の列がかすかに見える。バイクを止めて西のほうを見ると、昨日走った弓ヶ浜が美
しい曲線を描いて中海と美保湾を隔てている。その向こうに穏やかに広がる日本海もこれ
で見納めだ。今日の予定は中国山地を横断して南下、勝山を経て倉敷までの約220キロ
である。
秀峰大山をバックに 蒜山高原にて
  立派に舗装された大山環状道路を走り、蒜山(ひるぜん)高原に入ったのが9時30分、
すでにここは岡山県である。広々とした野原に牛が放牧してある。夏は避暑地としてにぎ
わう所らしく、別荘、レストハウスの類がたくさん立っている。勝山町、旭町を通って岡山県
の中央部を旭川の流れに沿って一路南下、岡山市に着いたのが12時40分であった。
 岡山城跡で休憩。岡山城は別名烏城、戦災で焼失し、現在の天守閣はその後再建され
たもの。旭川をはさんで向こう側の後楽園は岡山藩主池田綱政の築いた庭園で日本三名
園の一つという。庭園にはあまり興味がないし、こういうものは一人で見てもつまらないの
で素通りして倉敷に向かう。
 倉敷まで約20キロ、国道2号線を走る。沿線は水田が宅地や店舗、工場用の敷地に造
成されているところが多い。特に、自動車関係の会社、工場が軒なみに続いている。通行
車両はかなり多い。大型トレーラーの後について走ったので排気ガスをたっぷり吸わせて
もらいのどが痛くなった。
 倉敷は丁度阿知神社のお祭りがあっていて、さらに日曜日なので人が多い。静かなひっ
そりしたたたすまいを想像していたので、少々あてがはずれた。確かに古い倉造りの街並
みは珍しい。喫茶店までもが古い倉造りの家だ。倉敷は江戸時代にはこの地方の物資の
集散地であった。現在残っている倉屋敷はそのころの名残りである。倉敷(倉舗)は倉敷
川の遡行上限で、その地名は文字から見ても一目瞭然である。新幹線が岡山まで伸び
て、倉敷は京阪神からの日帰り旅行のコースとして最近注目を集めているようだ。
 大原美術館に入ったが、団体のおじさんおばさん連中で館内は一杯。人の背中越しに
鑑賞していったが、子どもが駆け回ったり泣き出したりで、もうとても芸術を味わう雰囲気
ではない。最後にはこっちが泣きたくなった。
 しばらく街をぶらつき写材をさがすが、なにせ人が多くて、とても静かな街のたたずまい
を撮るどころではない。本当の倉敷を見るには、美術館や考古館、民芸館などが休館と
なる月曜がよいと人から聞いたのはあとの話。
「倉敷のエトランゼ」〜大原美術館前で 「倉のある街並み」 「スケッチする女性 1泊2食780円
 倉敷の街を午後3時過ぎに出る。今日の泊まりは同じ倉敷市内だけど、瀬戸内海に突き出
している下津井半島の南端にある鷲羽山ユースである。倉敷市の中心から25キロほどの
ところである。途中から鷲羽山スカイラインに入る。今まで走った有料道路の中で、いちばん
起伏とカーブに富んでいる。オートバイ乗りにとっては楽しい道路である。
 昼食を食べなかったことを思い出し、途中で小休止してホットドックを食べる。目の前を、相
乗りのオートバイが何台かけたたましく走り去る。空は曇っていて眺めはあまり良くないが,
視界は広い。南のほうにはもう瀬戸内海が見える。日本でも有数の石油化学コンビナート基
地の水島工業地帯が眼下に広がっている。有料道路を走り終わってすぐのところにユース
ホステルは建っていた。
 ここのユースはペアレントが年寄りなせいかミーティングはない。夕食の時一同一緒に食べ
ると、あとは三々五々テレビを見たり新聞を読んだり。ペアレントの話によると、水島にコンビ
ナートができてから一帯のたこつぼ漁もすたれたとのこと。数年前までは、面白いほどとれて
いたのに、今ではたこつぼの底に黒い油が溜まっていることがあるという。瀬戸内海の汚染は
相当に進んでいるようだ。
 昭和42年に倉敷市に合併するまではこのあたりは児島市といって、学生服縫製で有名な
町だったそうである。今では水島コンビナートがこの地方の産業の中核である。夏頃になる
と東京の学生が就職の下見に訪れて、このユースに宿泊することも多いそうである。こうして、
10時半ごろまでペアレントの話を聞いていた。
 天気は下り坂である。ひょっとしたら明日は雨かもしれない。どうか晴れてくれますようにと
祈りつつ、4日目の夜を迎える。

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10月16日(月)〜5日目(下津井〜丸亀〜高松〜屋島〜琴平〜高知)
 下津井港から関西汽船、丸亀まで50分。知らないうちに船は動き出していた。時計を見ると
ジャスト9時。敬老会の団体で船室はほぼ満員である。誰もいない甲板に出てへさきに砕ける
波を見ているとセンチメンタルな気分になる。今日は、四国山地を斜めに横断して高知までの
ハードスケジュールである。
関西汽船のチケット
本四架橋児島坂出ルートはこ
の6年後の78年に起工。現在
は瀬戸大橋がかかっている。
出発前に鷲羽山YHの前で 下津井半島の日の出
 丸亀に上陸して国道11号線を東に走り、高松に向かう。源平の古戦場屋島を見るためである。
高松から屋島まではすぐだった。屋島の特徴的な台形の山容が見えてきた。全山松でおおわれ
ている。屋島に登る有料道路は短いのに160円もとられた。民間の経営する有料道路だった。
頂上は、最近の観光名所がどこでもそうであるようにけばけばしい看板のレストハウスや売店が
いっぱい建っている。観光資本の大規模な進出は、いきすぎると山地を削り谷を埋めアスファルト
とコンクリートで地面を覆い、折角の旧跡を台無しにしてしまう。これを残念に思うのは僕だけであ
ろうか。
 展望所から下を見ると、那須与一の扇落としの伝説を秘める源平の古戦場が見える。昨年で中
止されたという塩田跡も見える。名物の讃岐うどんを食べる。すじが太くてとても美味しかった。駐
車場で宮崎から来たという、90CCのバイクの若者と会う。互いに「一人旅は気楽でいいですね」
と言って別れる。彼は大阪に行くと言っていた。
 屋島を午後1時に出発。11号線に出て、右に行こうか左に行こうか一瞬迷った。一応高知に行
くつもりだけど、徳島を経由して室戸岬へのルートもかなり魅力がある。結局、お金も少なくなった
し、昨日痛めたノドもよくならないので、近道の32号線を通って今日中に高知まで行くことにする。
高松まで11号線を逆戻りして、高松から32号線に入る。
 航海の神様として有名な金比羅宮のある琴平町に着いたのが午後2時40分頃。参道への道を
走っていると、中年の男の人が「バイクはあっち」と指さすのでその方向に行くと、そこは有料駐車
場。おばさんがさっと出てきて、「バイクはここに置いて、ヘルメットは預かります」と言ってさっさと
持っていった。その手際のよさに唖然とする。料金の100円は惜しいけど仕方がない。あきらめて
ここから本殿までどのくらい係りますかと尋ねると、登り降り、早くて1時間はかかるとのこと。迷っ
たあげく折角来たんだからと参拝することにした。九州に渡るにはあと一回船に乗らねばならない
から、ここで航海の守り神のご機嫌をうかがっておくのもあながち無益ではなかろう。
 750段ほどの石段を登り終わると琴平の人口1万2千の小さな町が一望のもとに見渡せる。讃
岐平野特有のため池が方々に散らばっている。100円の絵馬を買い、また石段を降りる。
屋島の有料道路チケット 金刀比羅宮でセルフタイマー撮影
 3時40分に金刀比羅宮を出発。途中回り道をして満濃池を見たので、高知までたどり着ける
か心配になってきた。約100キロ、2時間で走れるかどうか。32号線は立派に舗装されてい
るが、陽が落ちて寒くなるし人家は少ないし、まことに心細い。途中で,大歩危・小歩危の名所
を通ったが暗くてよくわからない。大型トラックが多くて、その間にはさまれて走るので実に恐ろ
しい。やがて、次第に道が下り坂になり、顔にあたる風がなんとなく暖かくなったと思ったら、よう
やく街の灯りが見えてきた。高知県南国市の灯りである。この時には本当に涙が出るほど嬉し
かった。
 高知市に入ったのが6時40分、人に道を尋ねながら筆山公園のしたにあるユースに着いた
のが7時5分であった。ペアレントのおじさんのお疲れさんという一言に旅の疲れもふっとぶよ
うな気分だった。もう時間が過ぎているので食事はとれないので早速風呂に入る。
 夜はペアレントの話をまじえてミーティング。東京方面からのホステラーが多い。高知はこれ
で2回目で、高知大学に友だちはいるし、まったくの見知らぬ土地ではない。友人に電話する
と、予告なしで来たのでびっくりしていた。明日会うことにして電話を切る。本日の走行は248
キロ。さすがに疲れた。

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10月17日(火)〜10月21日(土) 
6日目〜10日目
(高知市内滞在〜宿毛〜佐伯〜大分(1泊)〜佐賀・相知)
 高知でとうとう雨になり、高知大学の南溟寮に三泊した。南溟寮は不知火寮(注:佐賀大学の
学生寮)に勝るとも劣らない。オンボロ寮である。高知に丸三日間滞在して雨があがるのを待っ
たが晴れそうもない。やっと10月20日になって,天気は上がり坂に向かっていたので少々の雨
を覚悟の上で高知を出る。
高知城で友人と 桂浜の風景
高知城で友人と 曇り空の桂浜
高知城入場券
昔のままの姿をとどめる高知城の入場券
 案の定、須崎市のあたりで細かい雨が降り始めた。今日は宇和島泊の予定だったが
高知県西端の宿毛から大分県佐伯市にフェリーが就航していることを途中で知り、急遽
計画を変更、大分市まで今日中に行くことにした。足摺岬を駆け足で廻り宿毛に着いた
のが午後2時。フェリーで3時間で佐伯に着き、佐伯から大分まで1時間。 九州に入っ
ても雨はやまず、大分の友人の下宿に着いたときはびしょぬれ。
 翌日9時に大分市を出発。大分市は前に数回訪れているので特に見るところもない。
由布院、日田、久留米を経由して佐賀市内に入ったのが2時であった。
足摺岬も曇天の空 足摺岬有料道路通行券片道50円
宿毛から佐伯へ向かう 宿毛〜佐伯フェリー

おわりに
 久しぶりに見る佐賀の銀杏並木はすっかり色づいている。実質1週間で中国四国2000
キロの旅が終わった。一日平均300キロ走行した駆け足旅行だったが、オートバイのトラブ
ルも1回もなく、おまわりさんのお世話になることもなく無事に終わった。一人旅の気楽さと、
後の方ではちょっぴり寂しさも味わった旅行だった。

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